『 無気力 』

 

春休みに入って全くカメラを握らなくなった。私にはもう写真しかないのにそう思えば思うほど撮りたいものが浮かばずカメラからどんどん遠ざかってしまう日々。入学した当初は沢山街に出てスナップやポートレートを撮ってやる気に満ちてた。暇さえあれば次に作る作品のコンセプトを考えて沢山の候補をメモ帳に書き出した。あの頃は新しい環境で外に出れば出るほど想像力が豊かになり私の写真も今より10倍くらい輝いてた。下手くそな写真でも向上心が感じ取れる写真だった。先生からアドバイスをもらっては「またあの場所に行って撮らなきゃ」という気持ちが芽生え土日はカメラ持って必ず出かけた。いい写真とは何か?常に追求していたと思う。

 

 

そんな向上心溢れる私が写真に対して正直に向き合えない出来事が起こる。

 

 

夏休み明けに期末審査というものが行われた。どこの学校にでもある前期の総まとめみたいなものだ。審査と言っているがうちの学校はテストでは無く、学校から指定されたお題の写真を撮ってきてそれを10枚の組写真にし、クラス全員と先生数名の前で見せて評価してもらうというもの。一生懸命撮ったとはいえ先生に必ずしも褒め言葉が貰えるとは限らない。クラスメイトの写真に対する厳しい視線、先生の厳しい言葉、全て今後の自分の写真人生を豊かにするために受け止めるしかないと思いながらその場に立っていた。自分の番が終われば当然人の写真も見ることになる。

 

 

とあるクラスメイト「S氏」の写真を見て発狂しそうになった。嫉妬と怒りで。結局そうなのか、世の中が求めているものはこういうものなのかと全てを悟り、写真のモチベーションがその瞬間皆無になった。その写真は課題のために海外で撮ったものらしく見るからに日本じゃねぇ、日本じゃ撮れないわって感じの写真だった。結局S氏の写真は評価され、最優秀賞までちゃっかり取った。

 

金と時間があればそれっぽい写真は評価されるということが目の前で起こった。写真が上手いから評価されたんじゃない。伝えたい材料が単純かつ明確でS氏の写真は評価されたのだ。そう、金と時間さえあれば人とは違う写真が撮れる。人とは違うことが伝えられる。「同じお題とはいえ国境を越えられたら勝ち目無くないすか。笑」心の中でそいつに向かってそう言った。S氏の写真を素直に褒めることも貶すこともしなかった。悟った。もう何も言えなかった。

 

 

その一件から自分が写真にして伝えたいことってなんだろうと毎日考えるけど答えが出ない。撮り手が写真に伝えたいことを10割込めても見る手に2割伝われば上出来の世界。それでも見る手に伝えたいこと、伝えなきゃいけないこと。この答えを出さない限り私は一生本気でカメラを握れない。目の前にある被写体の感情を理解できない。一刻も早く答えを出さなければ。

 

 

 

上海蟹食べたい。